アヤカシコネ

藤原家のために

 
私も5年前は無知無能でしたので表の記述を真に受けて、あからさまな古事記の編纂に不比等の真意が分からず苛立っていました。
 
私は崇敬神社が春日です、ご先祖も皆春日です、そして引っ越し先も春日に必ず縁のあるところです。
 
だから、藤原不比等
中臣不比等とは縁が切れない、なので私が調べた範囲で情報を残しておくことにします。
 
4世紀に九州北西部に勢力を持っていたのが、天児屋根の子孫である国摩大鹿島命であった、略して鹿島一族と言わせて貰う。
 
そこに物部の祖である伊香色雄の娘の新川姫命が嫁いだ、国摩大鹿島と新川姫の間に生まれたのが巨狭山命(おおみさやまのみこと)じゃ。
 
そして巨狭山に忌部首の祖である玉櫛命の娘の弥麻志姫と結ばれ、雷大臣と狭山彦を生んだ。
 
この雷大臣の子孫が不比等たちである。
 
中臣一族と言うのは、神と人間の仲介をするような一族の名である。
 
だから、よく四大豪族の藤原を名乗れたことを羨ましく言う者がいるが、中臣を称することの方が神官家系にとっては重要なことで、中臣家にとっては屈辱的なことだったかも知れない。
 
とくに鎌足は藤原を命じられ、直ぐに亡くなっている。天智天皇との関わりを名誉で美化する解釈が一般的だが、天智天皇は自分が種付けした側室を鎌足の妻にするような説もある、だから鎌足の実子長男は不比等であったと言う話もあるくらいだ。
 
 
不比等は阿礼と共に、国仕掛けを起こした。
 
既に大陸騎馬民族系の権威者が天皇家を蝕んでいたからだ、どれだけ怨霊になった天皇が多いか見て分かるように、大陸系の騎馬民族は傍若無人に女性を娶る、それが例え息子の嫁であっても、家臣の女房にも、近親相姦も構わぬような者が権威であった。
 
だからこそ、大祓に天津罪と国津罪を法り別けた。
 
国津罪に己れの母と子を犯すな、己れの子と母を犯すな、母と子を犯すな、子と母を犯すな、獣犯せる罪、と何度も重ねられている。
 
神社庁が発行する一般的な「大祓」には、この部分がカットされている。
 
要は大和朝廷は、既に倭人天族と大陸系騎馬民族との権力争いが起こっていたと見るのが相応しい。
 
九州王朝の墳墓は畿内より古く基本円墳である、南朝鮮に残る前方後円墳は2~3世紀の馬韓の象徴だ、日本に入って来たのは3~4世紀と言われている。
 
 
倭の五王→武内説では、仁徳天皇(讃)、反正天皇(珍)、允恭天皇(倭王済)、安康天皇(興)、雄略天皇(武)
 
 
話は戻します、後の時代に九州北西部に勢力を持っていた中臣の一行は鹿島や香取のある茨城に移った。
 
※正式に言えば茨城に勢力を移した鹿島一族と海神天族らが鹿島と香取を築いたのだ。
 
 
時期的には、伊香色雄と妹の伊香色謎が孝元天皇畿内に、神武と同じような経路で移っているので、その後の神功皇后の時代に志賀海の拠点から、鹿島一族は茨城に移ったと推測している。
 
※ちなみに畿内説では、伊香色謎と孝元天皇が結ばれたと。九州では、伊香色謎は開化天皇の妻になったとある。
 
 
また中臣と藤原について、九州の阿蘇を中心に栄えた古代豪族の藤原家は、後の時代に後醍醐天皇の皇子と共に畿内に向かった、このままでは何れ滅ぼされる藤原姓と「火と水」原始信仰を忘れないために藤原姓を菊池に改名したと言う。
 
畿内から後醍醐天皇の皇子らと別れ、さらに菊池一族は日本海沿いに船で渡り、新潟に落ち着く者や、さらに北上し青森の八戸から岩手の遠野に移り住んだ一族とあり、其々の代々受け継がれる古文書に残っている。
 
南部鉄器で有名な南部藩も、南方から移り住んだ菊池豪族一行が栄えたためである、九州は元々鉄が多く、熊本は特に古代から山鹿を中心に玉名などでタタラ製鉄が栄えていた。
 
このように製鉄を権力とする王族は「鹿」を称し鹿卜神事を行ってきたわけだ。
九州はまさに、製鉄の鹿島一族と安曇の海神天族の王朝であった。
 
原始信仰の「火と水」の神事については、菊池一族の中でも違いがある、火祭りを中心に行う一族と、水の神事を行う一族がある、日本海側に信仰の多い白山信仰菊理姫瀬織津姫と祭神が違うのは、祭事の違いである。
 
※国摩大鹿島(火)と新川姫(水)
 
また、現人神を降臨する祝一族も、雅楽を中心に行う一族もあり、軍団は其々を率いて地方に移動していたのだ。
 
後醍醐天皇と菊池一族だけでなく、例えば科野国造を言い渡された神八井耳の五世孫である武五百建命の二男の健稲背命も、既に諏訪に一軍と共に移動している。
 
ちょっと私の個人的な解釈で脱線すると、熊本の速瓶玉が九州を出て長野に行ったので出早雄になり、速いスピードで色んなところで統治していたので速玉男に愛着したのではないかと、ちなみに広島の安芸では飽速玉男である。
 
飽きやすい性格だった?笑
それとも空飛ぶ円盤を駆使していたかも?笑
 
なんちゃってうさぎクッキー
 
 
話は戻します、不比等は阿礼姫と国仕掛けを行った。阿礼姫と言えば阿波国の麻植神と忌部神だ、鹿島一族と縁戚にあたる。
 
ここまでザックリなことしか語っていないが、言霊から見ると鹿島と物部と忌部の勢力は九州北西部で栄えていた頃、弥生語を使って倭人天族としての叡知を持っていた。
 
畿内での大和朝廷の時代に、日本に流入した渡来人や多くの人々に伝え易い大和言葉が主流になった。
 
前記事に書いた五十音図の暗号については、大和言葉での言霊的解釈だ。
 
その大元となるのは弥生語であり、祝詞の主要語句に現れている。
 
中臣家は天児屋根が残した「神文」の継承者であり、大和言葉に変容してゆく世において、古事記の中に聖なる暗号を残したと言える。
 
 
ユダヤ同祖論を語る学者の方が言うヤマトビトの原点はココにあるにも関わらず、安易に藤原氏を渡来人と片付けるのはおなしな話だ。
 
それと同様に、五十音図を言霊の原点とするのも間違っている。
 
五十音図は、あくまでも大和言葉より発展した解釈であるが、その言霊文化のベースに弥生語がある。
 
鏡臣が遺した言霊の氷山の一角を、大和言葉的解釈したものに過ぎない。
 
※鏡臣とは、始祖である天児屋根の妃の称号だ、御笠臣または鏡臣として皇后の役割を世襲する。
 
 
海外の旧約聖書によって頭でっかちにしても、自分の家系や自国の文化を知らない者は、的外れな解釈を引き起こす。
 
そして本当に大切なモノも、自らの手で失ってしまうことになる。
 
レビと言うなれば、大村寅之助がレビ族の人相の片鱗すらないことに疑問は持たないのであろうか?
 
古代ユダヤやスメルの末裔など古き伝承を持つ一族は、今世であってもレビ特有の共通した顔立ちをされている。
 
物部には物部の雰囲気がある。
 
自分のルーツ、国、我が遺伝子を愛でないと紐は解けない。
 
 
 
また明治は、貴重な歴史や神事の資料を多く英国に引き渡している。
明治維新より一神教支配のための独自の歴史改竄が行われ、フルコトフミの根幹は誰も理解出来ないままに時代は流れる。
 
五十音図は、変動の時代に沢山の宗教が立ち上がり、そんな中で漏れた言霊解釈の一つだ。
 
また更に戦後のGHQの政策で「道」と付く神道の話はタブー中のタブーであった、だからこそ自然崇拝や祖先崇拝の型だけが残り、日本の叡知は伝えられていない。
 
 
 
 
アヤカシコネは、弥生語ではアヤクチコネ『遺伝子のこと』と言う意味。虹
 

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モーゼの墓

さて、話を変えて「能登半島モーゼの墓」についてお話したいと思います。
 
能登半島は素都乃奈美留が国造りを行っているので、基本素都乃奈美留の一族や従属した一派が古墳に入っていると考えるのがベターです。
 
素都乃奈美留は伊香色男の孫にあたります、ということは物部でありニギハヤヒの末裔、そして海人族では穂積一族となります。
 
なので地域を守る氏子さんたちも、高倉さん、瀬戸さん、素都さんが斎主家系として活躍していた地域です。
 
物部が虐げられた時代から、ニギハヤヒに関連することを隠すためにニニギとコノハナサクヤ姫を祭神として用いました、このようなケースはここに留まらず神話の祭神により上書きするケースは沢山あります。
 
なぜモーゼと関連するかを考えた際に、諏訪信仰がイスラエルと類似する点が上げられていますが、そもそも山幸彦(大国主)と豊玉(高志沼河姫)の子の建御名方が諏訪を統治したと言うことは、彼らも伊香色男の子で穂積であることが分かります。
 
彼らがモーゼだったのか?
 
それは定かではありません、但し竹内文書では守屋家はモーゼであるということです。
 
全国的に残る記述では物部の祭神ニギハヤヒの伝承に、必ず天浮舟や天磐船が出てくるところです。
 
これが一番の物部の醍醐味ではないでしょうか?
 
ちなみに天香具山もかぐや姫も伊香色男や伊香色女に関連します。
 
 
皆さん、ここで一つ気になりませんか?
 
伊香色男や物部の歴史、そして国造に関しては物部の末裔として現代に生きる子孫まで繋がります。
 
我々のような一般人の大半にです!
 
しかし古事記日本書紀天皇と呼ばれる人たちだけのモノで、一般大衆に紐付け出来ない書物です。
 
古事記日本書紀の方が本当の歴史ではなく、権力者に都合の良いファンタジーそして歴史書なのです。
 
だから物部や一般大衆に繋がる歴史書先代旧事本紀」は偽書扱いです、特に水戸黄門で有名な水戸光國や西園寺公望は燃やそうとまでしました。
 
世の中から消し去ろうとしたのです!
 
彼らは代表的な渡来貴族だからです、渡来貴族には天御中主を祭神として祀るように、時の天皇は渡来人に天御中主を与えました。
何故なら渡来人が来る前の先住民である物部は、すべての人々に祖神が存在し祖先崇拝を行っていたからです。
 
※追記〈古代物部祖神一覧〉
●天香具山(尾張の祖)高倉下
●天鈿女(猿女の君)日蓮さんの祖でもあるらしい
●天太玉(忌部の祖)
●天児屋根(中臣家や鹿島一族の祖)
●天櫛玉(鴨の縣主の祖)加茂一族の祖
●天道根(川瀬の造の祖)
●天神玉(三嶋一族の祖)
●天椹野(中跡の祖)
●天糖戸(鏡作の連たちの祖)
天明玉(玉作の連たちの祖)
●天村雲(度会神主の祖)
●天背男(山城の久我直の祖)
●天御陰(凡河内の直の祖)
●天造日女(安曇の連たちの祖)
●天世平(久我の直の祖)
●天斗麻弥(額田部の湯坐連の祖)
●天背男(尾張中嶋の海部の祖)
●天玉櫛彦(間人連の祖)
●天湯津彦(安芸の国造)
●天神魂(葛野嶋の縣主)
●天三降(豊国宇佐の国造)
●天日神(対馬の縣主)
●乳速日(広神麻積の連)
●八坂彦(伊勢神麻積の連)
●伊佐布魂(倭久の連)
●伊岐志邇保(山代の祖)
●活玉命(新田部の祖)
●少彦根(鳥取の祖)
●事湯津彦(取尾の祖)
●八意思兼(高皇産霊尊の子孫の祖)
●子表春命(信乃阿智の祝部の祖)
●天下春(武蔵秩父の祖)
月神命(壱岐の縣主)
等々
追記以上。
 
西園寺家が仕えた宇多天皇も、そして西園寺家も日本の習いに従わず、我が強く仏教を中心としていたので途切れ途切れの養子縁組を繰り返しています。
 
3代先に因果応報として現れるのです!
 
明治維新後、葬儀仏教に変えた西園寺は日本人たちに自分たちと同じ宿命を背負わすかのように、直ぐに途切れる先祖供養を強いたのかも知れません。
 
これは憶測ですが、現実的にはそうなっています!
 
神式で代々栄えた美しい系図が、檀家制度や他教徒に改宗することによって、家はあっという間に途絶えそうになり、家庭不和になり、家を継ぐ子孫に恵まれず、男子は早死にする!
 
そして水子の多い家系となる!
 
これが現実です。
 
祖先崇拝をきちんとした形で行わないから、古事記日本書紀のようなファンタジーに振り回され、日本人のための歴史に辿り着けず、歴史の迷宮入りに一生を捧げる人ばかりです。
 
今、流行りの教祖のように歴史の中にユダヤやモーゼ、キリストやヤハウェを紐付けし、特別な民族と担ぎ上げる、そのような主観が本来の日本人の在り方を見失わせているのです。
 
一向に正しい日本の歴史に食い込んでいけないものだから、日本人であることに自信が持てない。
 
一般の普通の日本人が1000年以上多岐にわたる歴史を持ちながら、その証拠とも言える国造本紀を偽書の一部として扱い葬ってしまったからだ。
 
 
大学の教授と呼ばれる人がユダヤやモーゼとホラを吹くことを生業とし…
 
信頼性のある神事をも信憑性の無いものにする。
 
そのくせ嘘ばかりが大きくなり、裏付けや根拠も調べず、神話や迷信に振り回されることをスタンダードにしているため、誇りに思えるルーツの裏付けまで辿り着けないのだ。
 
しかしこれからは、人々が築き上げた歴史のスクリーンは真実を映し出します、そのような時代の段階に入りました。

皆さんもお分かりの通りです!
 
歴史や文化を嘲り笑い皮肉に物事を貶める者は、その性悪さが顏に表れ、善人にも誠実にも思われず、見えない霊的存在も存在意義を否定されてなるものかと、その怒りの矛先を向けるであろう。
 
歴史と言う大きなスクリーンを織りなした人々の魂に愛でられながら、どこの国より幸せに生きる在り方を世界の手本となるよう生きてゆけるのが日本人である。
 
これが理解できぬ者は静かに日本から立ち去るしかない

この国は今も昔も御霊と共に仲睦まじく、言霊の霊妙な働きによって霊験あらたかな國でございます。
 

外八洲と内八洲の違い

古神道の口伝では日本は内八洲(うちやしま)で世界の雛型であると、そして海外は外八洲(そとやしま)と言って内と外を分けて考える考え方が伝えられている。

 

信仰も同じで内外とパックリ分かれた視点を考察したいと思う、先ず最初に注意しておきたいのは現代の日本と言うよりは嘗ての日本、内八洲と言う認識を持つ頃の日本と海外の違いを明記してゆく。

 

地球外八洲→悪魔や悪神を作る

 

日本内八洲→悪神を作らない

 

地球外八洲→シンボルのような超越した存在を信仰対象とする(釈迦やイエスなど)

 

日本内八洲→祖先崇拝のため祖先が守護神であり、神の腹から生まれ神の腹に帰るとする考え。

 

地球外八洲→外在神(超越した存在を見い出す)

 

日本内八洲→内在神(内なる神を見い出す)

 

地球外八洲→人間は生まれながらに罪を持つと言う教え。

 

日本内八洲→人間の誕生は祝いであり、人々は過去と未來の許しを得て今を生きていると言う教え。

 

 

〈まとめ〉

私の印象では、偶像崇拝やシンボル崇拝が主流の海外では、人でなく超越した存在を神とする傾向が強く、そのため権威主義のように超越した存在に依存した考え方が多く、人は神より劣っていると言う劣等感が付いて回る。

 

ところが日本は、内在する神を見出だしたり、我々が神の子として神がどんなに素晴らしいかを示すように、神のように素晴らしく生きると言う教えがある。

 

さらに日本人は御天道様は見ていると言う教え、これは森羅万象に神宿ると言う自然崇拝による考えが定着したものである。

さらに祖先崇拝により、守護神の祖先に日々見守られながら生きていると言う考えが備わっているため、日本人は見えないところでも努力を怠らない。

 

そのため基本、自発的で自立した考えが本来の日本人の在り方で、家を出ても祖先の霊に見守られながら自然の神々と調和しながら共生するスキルを身に付けて生活する。

 

それが嘗ての日本人だったと私は認識しているうさぎクッキー

 

現在ねじ曲げられた信仰とは、どのような部分かと言うことをココに明らかにしておこうと思う。

 

先ず、日本の神道道教と同じではない!

大学の教授が見事なまでに日本の文化の根幹を知らずして生きている、なので神社や神棚、神道が自然崇拝と祖先崇拝の二柱によって成り立っていることを知らぬまま、雰囲気が似ている道教と紐付けする学者が多い。

 

道教は現世利益で元々はチャイナの古代信仰である、そこに日本独自の祖先崇拝の教えは見当たらない、雰囲気と言うのは地蔵などの偶像に手を合わすことかも知れないが、そもそも日本は偶像崇拝ではない。

 

偶像崇拝は第45代聖武天皇が直々に偶像を建設させ、公共事業として発展させ更に疫病を抑えようとしたらしいが、そもそも現存する言い伝えといくつか矛盾している。

 

聖武天皇は様々な建設により、多くの大工や建築に携わる人々を率いて奈良の都を発展させようとしていた。

そんな中、天皇の後継者問題は深刻で世継ぎ問題で井上内親王は、天皇家と11系離れた夫を婿養子の形で婚姻し夫に光仁天皇となって貰っていた。

 

ところが井上内親王と皇子は策略にかかるように殺される、それにより怨念が疫病となり平城京を滅ぼし、怨霊となった井上内親王の怒りを沈めたものが御霊信仰であったと聞いている。

 

要は偶像崇拝を取り入れ災難をもたらした父(天皇)の犠牲になったのは、娘の井上内親王と世継ぎの皇太子である他戸親王(孫)が犠牲になったのである。

 

権威主義の教科書では父の聖武天皇を、疫病を抑えインフラ事業に功績を残したように称えるが、井上内親王に関しては大逆罪として伝えられている、当時の伊勢の斎王をしていた井上内親王と皇子を幽閉し不審な死を遂げているのである、そして治まらぬ井上内親王の怨霊を鎮めるために建てられた御霊社の数々が本当の歴史を物語っているのである。

 

さらに重要なことは、この時点で権威は継承したが血は直系でないということ、皇統に依存した者たちにはショックかも知れないが、これが本当の歴史だ、さらに井上内親王と同じ境遇は第33代推古天皇の時も同じ運命が重なっている。

 

又、同じ境遇は埴安姫も同様だ。

 

人によって伝えられ方は違うが、飛鳥昭雄先生によると「40代天皇まで神と付く人皆同じ」という名台詞があるが、その他に語呂合わせの56代天皇までのエピソードは皆同じという説もある。

 

日本の歴史は「見せながら隠す」このような文化であることを認識すべしなのだ。

 

話は反れたが、日本は仏教が入り偶像崇拝を取り入れたことにより、先住民の持つ日本の歴史と信仰にジワジワと外八洲の考えを取り入れてしまったのだ。

 

今と同じように海外文化を取り入れ過ぎて国を滅ぼすように、移民問題は過去も未来も課題なのだ。

 

しかし日本は何故か何時の時代も本物だけが残る!

 

それは何故かと言えば、日本人は内在する神を見出だすことにより、DNAに刻まれた日本人本来の在り方に辿り着くことが出来るからだ。

 

何故なら「偶然は神」「愛は神意である」日本は見える世界と見えない世界の調和により、必然と数奇な数々の導きにより必要な生き方と役割を果たして来たのである。

 

しかし、霊的世界に偶像を取り入れ、祖先の神々の守護する力が弱まった時、外八洲に棲む悪魔が世界を制覇しようと目論み動き出した。

 

欺瞞と嘘に満ちた終末に「真」が現れると、しかしそれは嘗ての日本。

 

国民一人一人が祖先を敬い祀り続けることこそが内八洲の文化であり、近代に失われた文化である。

 

霊的な力を味方にする生き方が、どれほど強いか今の日本人には分からない。

 

祖先を守護神とし、内在する神を見出だし、惡を蔓延らせない世の中にする、これこそが日本の信仰であり日本の在り方である。

 

 

ちょっと面白いことを言えば、日本人は祟り神も動かしてきた、天変地異や流行り病を起こす祟り神を、外八洲の遠くに移す方法も伝授されてきた。

 

これは村や町にそぐわない人を、その人に合った別の地に移しやるためにも使われて来た奥書である。

 

だから外八洲とは、そもそも昔の日本人が祟り神を移した先の野蛮人の世界と言う認識もあり、明治維新後の欧米化が進む日本人に「外八洲の野蛮人に、そのうち日本人はケツの毛まで抜かれてしまう!」と憂いでいた霊能者がいる。

 

外八洲も内八洲も祟り神の居ない素晴らしい世界を作る方法は、日本人と同じように内在神を持つ精神の拡張が求められるが、日本人は祖先崇拝を忘れ放棄してしまったために世界の惡の力が溢れかえった。

 

これを宗教家は世迷言と言うかも知れないが、事実は小説より奇なりなのである。

 

信じるかどうかはアナタ次第です!

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熊野宮

このお盆などを前に、「仏教では御坊さんに御経を唱えて頂きますが、神道ではどのようにすれば良いですか?」と聞かれます。
 
実は、神道と言うのは現代用語の1つのようなもので、神道=日本文化です。
本来宗教ではなく、古来から日本人が普通に行って来たことが、現代神式など言われているのです。
 
元々先祖供養は日本の文化の一つ、祖霊祭は各地そこの風習で各家々が普通に行ってきたものです。
 
今の四十九日法要も、元々五十日祭の合祀祭が仏教式法要に変りました。
 
仏教には根本的に死者に対する供養や祖先崇拝と言う考えはありません、現世利益を求め生きるための経典です。
 
日本に元々根付いていた祖先崇拝や霊的世界にも進出し、明治以降そして戦後70年の間にGHQ神道を禁じられた為に仏教式で行うことが主流になった訳です。
 
そして年中行事の祭礼も、春季祖霊祭は「春分の日」に変り、秋季祖霊祭は「秋分の日」に変り、中元祭が「お盆」に変わってしまったのです。
 
祖霊祭の作法は、その土地や家柄の伝承により様々ですが、基本的に日本人はご先祖さまを身近に感じ感謝するという独特の感性があります。
 
精霊馬の茄子と胡瓜を馬や牛に見立てて、ご先祖を御迎えし、御供え物をして、霊的な存在を肌で感じながら感謝して過ごすことが祖霊祭の過ごし方です。
 
霊的存在を迎え入れ神秘的に過ごす(笑)
 
少しオーバーですが、お盆の提灯や行灯など明かりを灯し神秘的にお祀りしますね。
 
「明」と言う字が物語っていますが「日と月」で「神」と言う考え方から、特別な明かりなどに対して、あの世で神となった霊魂や霊的な存在を感じ安心を頂いているのかも知れません。
 
色んな作法がありますが、霊的存在を認めた社会が日本古来から培っている伝承と言えるのではないでしょうか。
 
 
神社にある屋根のついた祠↑のようなものは地域によって違いますが、私が一番見てきて多かったのが斎主家系のお墓です。
 
地域によって氏子たちの墓もあります。
 
本来お扉の中には、霊の依り代である「短刀」又は「鏡」が納められ、神棚や本殿同様にお扉は閉めてお祀りするものです。
 
江戸後期の一揆や、戦時中の物不足の間にそのような金物が使われ放置され、戦後の混乱期に偶像が入れられたり、別の意味合いの祠として現存しているものばかりです。
 
 
次に神道が何故?「宗教」になってしまったのか?
 
明治政府の政策により一神教化は進みました、そして霊的な祭事である幽祭神事や夜の祭事を閉鎖し、昼のお祭りを全国で統一しようとしました。
 
一神教化することで各地其々に伝わる伝承を絶ち、各地の斎主家系は解体されました。
元々の世襲性を廃止し、神社庁から教育を受けた神職が各地の神社に派遣されました。
 
昔からの仕来りや、大切な継承文化を守りたい神社は神社庁に属せず対立姿勢になりました。
 
このままではいけない!と言うことで、明治天皇により「宗教化」することで古来からの祭事を守ってきたのです。
 
そのために宗教となっただけなのです!
 
お正月に門松や鏡餅、お盆にはご先祖供養、これって普通のことですよね。
 
宗教のために行っていると意識する人は先ずいません、何故なら日本の文化で風習として普通に行われてきたからです。
 
神棚も祖霊祭も本来は同じ、たまたま今の時代に仏教が主流になってしまい、こう言った話が出来る人が少なくなってしまったからです。
 
ご先祖は、どんなに苦しい時代も私達未來のために子孫を残し、子孫繁栄のために祖霊祭を行ってきたのです。にじ~
 
何事もお寺任せにせず、自分たちの受け継がれた魂に心寄せて、お過ごし頂きたいと思います。
 
 
なんだかテーマを決めず書きましたら、この季節柄らしい記事になってしまいました。龍
 
 
『子孫血族者共を守る御霊と令在まして 
夜は夜の事々 昼は昼の事々
守り導きたまへと禮び拝み奉らくと申し上げます』
 

お盆の過ごし方

コロナ毎日ですね、いかがお過ごしでしょうか?笑

 
お盆は御先祖をお迎えし、そしてまたあの世に送り出すための風習です。
 
お盆と言うのは初秋祭と言って、仏教伝来以前から祖先霊祭として日本では仕来たりがありました。
 
お盆やお彼岸は仏教だと思われがちですが、仏像崇拝はあっても、仏教を通じて祖先の霊を祀ると言うのはありませんでした。
 
「祖先を敬う日本文化」に仏教が溶け込んだとも言えますが、明治の政策以降に日本の継承文化や風習が失われ、仏教が代行するようになり現代に至るのだと考えられます。
 
 
関東では七月十五日を中心に「精霊送り」をしますが、精霊馬と言ってキュウリやナスを馬や牛に見立て、馬に乗って速やかに帰って来られるように、あの世に上がられる際は牛に乗ってゆっくりと、そんな願いで精霊による御霊迎えと御霊送りが行われました。
 
関西では8月13日の御霊迎えから15日の御霊送りが、祭礼の期間となります。
 
各地によって様々な風習があるのも、日本文化の面白いところです。
 
 
実はお盆の前に、奥津城(お墓)のお掃除をします、関西では8月7日辺りです。
 
本来の風習では、13日に奥津城の前に供えた榊を一枝持ち帰って家の祖霊舎に供えます。御霊はこの枝と共に家庭に帰られ、15日の夕方に奥津城に返して盆行事を終えていました。
 
近年仏教式に変わり、榊をお墓に祀る習慣もなくなれば祖霊舎もなくなり、仏壇に変わりました。
 
御先祖の御霊を迎える風習がなくなり、墓も仏壇もお寺任せ。
 
そして肝心な僧侶も、このような御霊迎えと御霊送りの風習の意味も知らず、難しいお経を唱えられてしまうのです。
 
経典って僧侶が学ぶものですね、あの世では僧侶の修行が始まるのでしょうか?
 
おかしいですよね 滝汗
 
 
 
では、このような現代社会で「お盆」をどのように過ごせば良いか?
 
本来の目的は『感謝』合格
 
日本の御霊迎えと御霊送りは、御先祖に感謝するお祭りです。
 
ご先祖の御霊を迎えるために、それなりの準備をします。
 
仏前の場合、御先祖の話を良く聞くと言った言葉から「聞く=菊の花」そして穢れのない清き心でと言うことで、白い菊の花を中心に言われてきました。
 
しかし供養や風習を調べていく上で、本来の日本の文化を考えると、おもてなしの心であればこだわらなくても良いかと思います。
 
ただ、他人のお寺さんに一任するのでなく、我々の御先祖ですから。
 
ご先祖さまに感謝の言葉は、仏教でなく私たちの言葉や、昔からの風習を重んじるのであれば「謝恩詞」を読んで差し上げるのが一番良いかと思います。
 

謝恩詞

 

かけまくもかしこき

幽冥大神(かくりよおおかみ)の おおまえに かしこみかしこみもまをさく

 

大神の広き厚き恩頼(みたまのふゆ)によりて

食物(おすもの)、衣服(きもの)、住所(すみか)を初め、よろずの事等求(ことどももとむ)る任(まにま)に

令得給(えさしめたま)い

勤むる任(まにま)に

令成給(なさしめたま)い。

 

親族家族(うからやから)和(なご)び睦(むつ)

日にけに心安く楽(たぬ)しく撫でたまい

守りたまいて

現世(うつしよ)を去りぬる後の魂(みたましい)も

永久(とこしへ)に治めたまい恵みたまい

 

幽冥(かくりよ)の制度(ならわし)のまにまに

神の列(みずら)にいれしめたまい

裔(うみのこ)の彌次々(いやつぎつぎ)をも守り幸(さきはへ)ぬべく穴ないたまい助けたまいて

 

現世(うつしよ)も

霊冥(かくりよ)も楽(たぬ)しみ

歓びの変わる事無く尽(つく)る事無く

 

恵みたまい

愛でしみたまはむ事を

嬉しみかたじけなみて

 

たたえごとおへまつらくを

御心(みこころ)も平和(おだひ)に聞食(きこしめせ)とかしこみかしこみまをす。

 

〈省略した場合〉

 

幽冥の大神憐給い恵み給い「かくりよのおおかみあわれみたまいめぐみたまい」

幸魂奇魂守り給い幸給い「さきみたまくしみたままもりたまいさきわえたまい」

※この部分だけを三唱します。
 
一応記載しましたが、昔の大和言葉をベースに祝詞は作られているので、どこで句切っても詠みづらいですよね、でも昔からの想いや意味は伝わりますよね。
 
勿論、現代語で分かり易く伝えても大丈夫です。チョキ
 
 
ポイントは、あの世の全ての神様(ご先祖を含む)の恩恵を受けて、食べ物、着る物、住まいから何から何まで感謝する気持ち。
 
そして、みんな仲良く暮らせますようにと。
 
そして大事なのは、亡くなった後あの世で神様になられますように、あの世でも嬉しく楽しく、ご先祖の歓びが変わらないことを祈り、心を穏やかに暮らせるようにお願いします。
 
私なりの解釈は上差し
 
子孫を見守る神になることは、あの世でも果たすべく役割があると言うことの願い。
 
フワフワ浮遊霊のように彷徨わないように
 
これは同時に我々子孫においても、現世での生き甲斐や楽しみある暮らしを、相互同調させる意味でもあると考えています。
 
鏡の向こう側の世界のように~♪
 
「今」の私たちのことだけではなく、ご先祖のあの世の世界においても、互いに幸せを実感し合え思い合えることを願う。
 
そのように解釈しています。
 
 
例えば、昨日ご近所の友人が手作りのオハギを届けてくれました。
 
本当にありがとうございますハート
 
勿論お供えします口笛
 
ちょっとココから大阪弁になりますが(笑)
 
「お婆ちゃん○○子さんのオハギ美味しいで~いっぱい食べてや~」と供える。
 
そして
 
「お婆ちゃんが、あの世でも美味しい思い沢山出来るように、私も頑張るから見守っててや~」みたいな感じで私が食します。爆笑あせる
 
やっぱ大阪弁だと品がないな~あせる
 
 
其々世界は違っても、一緒に生きている感覚をとても大切にしています。
 
だから普段でも、流しに食器を残しておくと「○○ちゃん、こんな少しくらい洗ってしまいや~」って、祖母に言われた気になり「はい、はい、分かりましたよ~」って、ちょっとメンドクサイなって思いながらやったりします。笑っ
 
おじいちゃんは何も言わなかったのに!
 
 
ウフフ(ノ´∀`*)
 
 
基本、お盆の時期は感謝することが多いです。
有り難いことを思い出して更けたり、有り難かったことに気付いたり、色んな事柄にあらためて感謝したり。
 
好きな音楽も頭の中に流れ、何だか無性に幸せな気持ちいっぱいになります。
 
 
まさに、お盆サマサマなのです。
 
とくに今年はコロナ毎日なので、まったり有り難さを堪能出来ています。
 
暇って、仕事がないって意外と嬉しいw
 
 
ま、目に見えないモノだからこそ、このような風習として大切に残して頂いた知恵、御先祖様や日本の文化に感謝です。虹
 
 
コロナで、お墓参りが出来なくても神棚がありますので、我が家の神棚Wi-Fiは霊界と繋がっております。
 
インターネットで便利な世の中ですね♪
 
我が家のヘブンネットは感度良好です音符
 
 
 
インターよりヘブンの方が幸せですようさぎクッキー
 

神道部落

部落解放運動とか皆さんご存知ですか?
少しデリケートな問題として知られていませんが、身分制度と言うのを一方的な解釈でなく、様々な背景があったことをお伝えしたいと思い書き綴ります。
 
江戸時代に作られた身分制度士農工商・エタ・非人」この「エタ」そして「非人」が差別されて来ました。
 
非人と言うのは、もはや犯罪や狂暴者としての扱いですが、「エタ」と言うのは少し違います。
 
どちらかと言えば政治的に扱いづらい人々、だから橋の無い川で「エタ」が住む地域は隔離されて来た。
 
そして隔離されて来たからこそ、残せてきた日本の大切な文化が、実はここにあるのです。クローバー
 
 
先ず、徳川家は浄土宗の嫁を貰い、江戸時代は仏教が発展しました。
 
○○権現とか聞いたことがありますよね、熊野権現春日権現など、要は「権現」と言う仏教用語を用いないといけないほど神道に対する圧力がありました。
 
なので熊野権現熊野神社のことです。
 
そのくらい日本の元々の文化である神道が抑圧された時代は長かったのです、そして神道部落は「エタ」と言う身分に落とされた。
 
しかし、天皇の棺を持てるのは「エタ」の人だけ、大事な棺ですよ!
 
そこには本来大きな意味がありました。
 
 
より時代を遡って説明します!上差し
 
実は神武天皇の時代から、臣民(国民)は大御宝です。
 
天皇は大御宝を愛し、大御宝の幸せを祈る特別な存在です。
 
だから日本には身分はありません!
 
身分も階級も格差もなく、みんな大御宝でした。
 
みんな「神の腹から産まれ、神の腹に還る」と教えられてきてますから。
 
だから、官僚だろうが、総代表であろうが、なんであろうが堂々と対等にハッキリとモノを言ってきたのです。
 
政治でも、領主でも、間違っている者には「違う」とハッキリ言えたんですね(私のように)、そう言ったことは記述にも残っていますよ。
 
とくに神武の代から40代天皇まで、政治祭祀両権掌握者であった物部一族などからしたら、建国から国を治めてきたわけですから、黙っちゃいませんよ!
 
 
ところが仏教は大陸を渡り様々な儒教なども経由し入って来ていますので、階級などの大陸の思想が強くありました。
 
鎌倉辺りからメキメキ仏教に力を入れます!
 
江戸時代、徳川将軍家が仏教とくに浄土宗を贔屓にしていたので、そりゃハッキリ物申したり、将軍家にも楯突くような、立派な神道一族は煩わしかった訳です。
 
身分を落とし隔離し、なるべくおとなしい一般庶民に関わらないようにする必要があったわけです。
 
ちなみに浄土宗は、阿弥陀様がなんでも叶えて下さるそうで「墓には霊はありません、あらゆる霊魂は阿弥陀様がすべて極楽浄土に運んで下さる」と、まんまと洗脳された将軍は知恩院建設に全国に御触れを出しました。
 
家の身分を誇示するために、ウチのご先祖も当時多額の寄付をして檀家に入りましたよ!
私の代まで、知恩院に室町から続く系図があると言われてきましたから!
 
実際確認したら、ありませんし探しても貰えませんでしたけどね。真顔
 
我が家だけでなく、古い家には知恩院に当時の通貨で百万相当の寄付をさせられ、知恩院開設の記念品の「扇」などが残っています。
 
そう言った背景から生粋の神道を守ってきた方が、神道部落として「エタ」と言う身分を強いられ苦しい時代を乗り越えてきたわけなのです。
 
そのお陰と言えば申し訳ないのですが、古式の浦安舞や神事が無事残りました。
 
貴重な神事や舞が、しっかりと受け継がれて来たのです。
 
明治の橿原神宮は、そんな有数の神道部落の土地の提供があって建てられた神宮ですから、部落が解放され「守りべくことは守り抜いた」人々のお宮でもあります。
 
 
戦前戦後のような治安の悪い地域を指して部落と呼んで来ましたが、江戸時代の神道部落は意味が違います。
 
大正生まれの祖母ですら差別してました、私は「頭の悪い金持ちのお嬢が差別するんやで、おばあちゃん恥ずかしいわ!」と言ってやりました!チョキ
 
現に、神道部落出身の人は頭の良い賢い人ばかりですよ、みんな昭和の時代に医者になったり、偉い人になっています。
 
そして、明治政府の強制的な一神教政策に加盟しなかった古神道も、明治天皇より宗教として古式を存続しますが、大正から昭和初期生まれの宮司さんは無知なため、明治の政策を知りません。
 
また江戸時代の身分制度の背景も知らないため、部落だから神社庁に加盟できないとか、神社庁にも加盟できない神社と言ったり見下していました。
 
本当に恥ずかしい!
 
神社庁の方が、よっぽど出来損ないの組織です!
 
霊的祭事は受け継がれず、昼の祭りと形式だけ。
 
地域の斎主家系は解体し、縁も所縁もないサラリーマン宮司に沢山の神社を兼任させ、ご主祭神を変え、歴史も継承しない。
 
だから神棚の祀り方もムチャクチャでも気付かない、祀り方の意味も分からない人が多い。
 
何を勉強して宮司になっているんでしょうね?
 
神事の祭りの足の運びや型だけを学んでいるようです、あと難しい祝詞とかかな?
 
一部の古神道だけで伝えられてきた、非科学的なことは一切触れないから、何故?神は見たり触れたりしないものか?
 
根本的なことが継承されていないのが現実です。
 
祖先崇拝や神棚のことで、一体何人の神職さんにガツンと怒ってきたことか!笑
 
 
※明治政府は大陸から忍び寄せる白人の植民地支配を懸念し、日本を一つの国にする政策を行って来ました。当時土着信仰だった其々の信仰から、国民の意識を一つにするために一神教政策を行いました。
 
それにより祭神は変えられ、霊的な神憑りや幽斎神事などを廃止し、昼の祭りに徹し、各地世襲制だった神主家系や斎主家系を解体しました。
 
『昔からの継承をしないとは何事か!』
 
その政策に従えない神社は立ち上がります、それを危惧した明治天皇は「宗教」と言う形で存続させることを提案し、それに従い存続してきた神社は神社庁に加盟せず各々の教会としてやってきたのです。
 
有名なところで出雲大社出雲教石切神社の石切教など、そう言った背景の中、古式を重んじ伝統と継承文化を守ってきたのです。
 
ちなみに神社庁の前身は大日本皇道立教会です、創価学会や他の新興宗教の前身でもあります。
 

 
差別をする人は日本人ではありません!
 
在日韓国人であろうが、在日中国人であろうが、何処の国であろうが、日本の継承文化を愛して下さる人は、すべて大御宝です。
 
神社一つとっても、ゾウの彫刻に、イスラエルの様式の建て方や祭りに、ベトナム雅楽もあり、韓国の貴族のような履物に、唐の召し物に、色んな要素があるでしょう。
 
だから差別なんてする人は、日本にいても日本人とは言えません!
 
そして、自然崇拝と祖先崇拝によって、自然を愛し共生し。
ルーツを大切にすることで一族の誇りある生き方が、権力に媚ない生き方となり故郷を守る力となるのです。
 
 
本当の文化を忘れないこと!
 
大切なことが學びです!
 
「中(ナカ)今(イマ)を生きる私たちは、祖先から未來との中間で許されながら生きている」と言うことの教え。
 
「言霊」の教え、「森羅万象」の教え、そして「生きとし生けるものすべて」の教え。
 
美しい日本の心を伝えてゆきましょう。日本
 

琉球

昨日は九州博物館で開催されている沖縄復帰50年記念特別展「琉球」を見に行ってきました。

 

 一番素敵だなぁ~♪と思ったのは!

 

 

 ↑こちらの空色地花籠燕文様紅型苧麻衣装でした!うさぎクッキー

 

面白いですね、空色地の色が好きです、さらに花籠に溢れるお花が素敵で、苧麻「ラミー」のお衣装のようです。

 

きっと麻で出来ているから通気性が良くて、着心地満点なんだろうと思ってしまいました。

 

 
今回3階と4階を閲覧致しましたが、とても素晴らしい展示内容で充実した1日を過ごせました。
 
ただ残念なのは、日本の歴史学者は何故こうも薄っぺらい人ばかりなんだろう?と、相変わらずな気持ちになりました。
 
だって、何でも大陸から!
 
日本を軸として歴史を語れない!
 
ふにゃふにゃで背骨がないんかい!
 
尚王のおかげで琉球が栄えたような書き方にプライドないんかい!?と、言いたくなりました。
 
やたらと尚王を持ち上げていますが、尚王は原住民の我那覇一族と久米一族と棚原一族によって滅ぼされています!
 
分かりますか?
 
沖縄の県民あっての尚王だったのです!
 
沖縄の人々のおかげで繁栄出来た、そこには元々の海洋民族の海神族が存在した、だから方言によって言葉は変わっても同じ信仰が育まれています。
 
いくら日教組畑で培った反日教育のエリートであっても、周辺諸国のお千棒を担ぐような学者になったら面白くないでしょ。
 
私が、もし親なら優秀な成績で名門に入っても、日本の素晴らしい歴史をそっちのけで海外ばかり媚びるような人間になったら!
 
学校に文句言いますね!笑
 
日本の歴史を中国の文献を中心に照合したり、中国の歴史を中心に日本の歴史を考えるなんて!
 
なんで元々海洋民族の沖縄に、大陸の中国から逃げ込んだ尚王は沖縄の人々のおかげで繁栄したと書けない?真顔ムス
 
私がムスってなる気持ち分かって貰えたかしら?(笑)
 
ちなみに正統竹内文書では古代沖縄は「アコナハ」と呼ばれていたそうです、ムッちゃん先生が仰っていました。
竹内文書を正当化しろとは言いませんが、でも日本の軸のない歴史認識においては「日本の歴史学者辞めたら?」って言いたくなります。
 
琉球展の友人との感想は、以前展示されていた正倉院展と似ていて、安曇の海洋民族の独特の船や模様が沖縄と似ていて、と言うか一緒だね!と話ました、あと五郎山古墳の中の壁画と似ていて友人と驚きました。
 
もしかしたら五郎山古墳は、そこに眠る王が馴染みのある船の紋様を模すことで、あの世に送り出す船あるいは、あの世でも海神の船で黄泉の世界を渡ることを祈り描かれていたのかと、ふとイメージしながら博物館を後にしました。
 
帰り道に歴女からステキなメールが届いていました!

今日見ていただいた「玉ハベル」の「ハベル」琉球の古語で「蝶」を意味し、『おもろさうし』巻13にはハベル=蝶が、守り神たる「おなり神」の比喩として謡われています。

 

※「おもろそうし」とは

琉球王国第4代尚清王代の嘉靖10年(1531年)から尚豊王代の天啓3年(1623年)にかけて首里王府によって編纂された歌集。歌を意味する「おもろ」「思い」と同源の語で、そのルーツは祭祀における祝詞だったと考えられており、「そうし」を漢字表記すれば「草紙」となる。全22巻。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%82%E3%82%8D%E3%81%95%E3%81%86%E3%81%97

 

※「おなり神」とは

おなり神(おなりがみ)またはをなり神(をなりがみ)とは、妹(をなり/おなり/うない)が兄(えけり/えーり)を霊的に守護すると考え、妹の霊力を信仰する沖縄地方の信仰である。かつて琉球王国の版図であった奄美から先島まで広く見られるが、唯一宮古島では、おなり神信仰は希薄となっている。

 

柳田國男は、女性の霊的な力によって、妹が兄を守ったり、姉が弟を守ったりする精神的な力による支配を「妹の力」と述べ、これをおなり神信仰に当てはめた。1927年伊波普猷は柳田の指摘を発展させ、琉球のおなり神信仰が姉妹と兄弟の家族関係だけでなく、王とその姉妹である「聞得大君によって支えられたと指摘した。

 

現代では琉球の信仰(琉球神道の一要素として捉えられているが、ウナリ神信仰を基盤とした祭政一致社会は、日本本土の邪馬台国や古奄美など広範に見られる。

 

日本本土でずいぶん前に失われたものが、ここにはまだ息づいていますね~

こんな内容です、ということは!

 

もっと勉強せねば、、、( ̄^ ̄)ゞ御意!

 

沖縄のお客様が多いし、これは勉強の範囲を広げろと言うことだと思いました。

 

ちなみに、久米を「くにんだ」と読むことを知り『米』って「にん」と読むのー!?と同行していた友人と驚きました。

 

あと祭りの模様が映像で流されていたのですが、それを見ている度に、沖縄のお客様から教えて貰った火の神様を「ヒヌカンと呼ぶ」ことを、何度も何度もヒヌカンヒヌカン♪と頭の中に出てきました。爆  笑

 

という訳で、とても勉強になった一日でした。風鈴

 

 

九州博物館の目玉と言えば、模造品を触ったり出来るコーナーが4階にあります。

 

私は篆書の印を、ずっしりしてました!

 

ぜひ九州博物館にお越しの際は模造品のクオリティの高さを味わいに行って下さいね!ウインク

 
 

素晴らしいです音符友人たちに感謝お願い

 

 

さて、気になる動画です!

途中のナオライオンさんの友人の水道事業の話がとても参考になります。

是非みなさんお目通しを♪

 

 

お次、これは知っておいた方が良いですよ!NHKの受信料のことについて是非ご覧下さいませ

 

 

萌絵ちゃんの今日の動画は必見です!!!

 

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