久留米の諏訪神社

新年度を新たな御札で迎えたいと、大晦日より早めに準備する我々。
 
昨日は、雪の晴れ間に導かれたように神社に、向かった先は久留米の諏訪神社
 
表向きナムジの次男ということになっているが、私は別の角度から見ている。
 
先代旧事本紀や私が調べた資料によると、開化天皇と伊香色女が結ばれたのが高良大社、彼らは柳川から船で東征に赴く。
 
次世代が同じように、柳川から船で長崎を回り向かったのは長野県、これは国造本紀においても示されていることである。
 
そしてこの日、それを裏付けるように高良大社の次に、コチラの神社は二番目に古く建てられたお宮であることを知った。
 
私の調べでは伊香色男と開化天皇は同一と見ている、古い文献ではそう記されているからだ。
※今の学者の多くは160年前の学者の注意書きを真に受けて解釈している、様々な文献を漁ってみると例えば「纏向日代朝は景行である」と景行と記されているだけで推測なのか伝承なのかは定かではないのだ。しかし今回「伊香色男と開化天皇は同一」であると言うのは、そのように脚注に書かれていることから伊香色男と開化天皇は同一として理解した書き方をしている。あくまでも、私の希望的観測ではなく文献の指示に従った書き方をしたいる。
 
夫婦だから伊香色男と伊香色女
別名では天之児屋根と姫大神
さらに別名では春日麿と御笠臣
さらに別名ではナムジと・・・。
 
それを裏付けるように、東大阪では春日神社はいくつも点在する、戦前や明治以前は春日神社は高良社であった。
 
先代旧事本紀から推測すれば、九州最大級の王朝である志賀高穴穂朝。そこの穂積の長である伊香色男と、纏向日代朝に関係する伊香色女(磐余玉穂朝)が高良大社で結ばれたのではないかと見ている。
※磐余玉穂朝は調べ中であるが逆論で伐たれたのではないかと考えている。
 
何故なら国造本記で須羽国造を賜った建沼河命の子孫とされている者に関して、文献に残る名前だけを分析すると、建沼河命は大彦命の皇子とされている。ではこの大彦命は誰かと言われたら伊香色男なのである、「大彦命=伊香色男」なので高良の子が建沼河命であっても当然のことだし、高良大社の二番目に久留米の諏訪神社が設けられ、その後長野の諏訪に行ったとしても、また武内宿禰に関連することにしても伝承のままと言えるのだ。

伊香色謎命 (いかがしこめのみこと)

孝元天皇妃。開化天皇皇后。崇神天皇の母。
孝元七年二月二日、天皇の妃として彦太忍信命武内宿禰の祖父)を生んだとあり、開化六年一月、皇后となり、御間城入彦五十瓊殖天皇を生んだとある。開化天皇は庶母と結婚したのである。
崇神天皇即位前紀に、天皇の母を伊香色謎命といい、物部氏の遠祖・大綜麻杵の娘であるとみえる。(『紀』
古事記にも同様な記載があるが、名は伊迦賀色許売という表記である。
『旧』天孫本紀は、大綜麻杵大臣の子で、母は高屋阿波良姫といい、崇神天皇の時代、皇太后の尊号を、垂仁天皇の時代、太皇太后の尊号を贈られたという。

また別の視点から言うと、当時の志賀高穴穂朝は北部九州から出雲まで統治していた、なので私の調べた限り対立構造はなく、出雲というのは海神族を表すスサノオと、高木神の娘アマテラスの誓約を象徴とし、両家の祖を祀った神社が石上神宮であり、その政を行ったのが伊香色男であると見ている。

伊香色雄命 (いかがしこおのみこと)

崇神七年八月七日、しばしば災害のおこることを憂いていた天皇に、穂積臣の遠祖・大水口宿禰ら三人が奏上するに、各人の夢に貴人が現われ、大田田根子をもって大物主大神の祭主とし、市磯長尾市をもって倭大国魂神の祭主とすれば天下は太平となるだろうと告げられたことを述べた。大田田根子を探し求めたところ、その父は大物主であると答えたので、天皇は「朕、栄楽えむとするかな」と喜び、物部連の祖である伊香色雄を神班物者(神に捧げ物を分つ役)に任じた。
また、同七年十一月十三日、伊香色雄に命じて物部の八十手に作らせた祭神の物(幣帛)を以って、大物主大神倭大国魂神を祭り、その後八十万の群神を祭ったところ、疫病は止んで国内は鎮まったという。(『紀』
『記』崇神段には、伊迦賀色許男に命じて天の八十平瓮を作り天神地祇の社を定めたとする記事がある。
『旧』天孫本紀は、伊香色謎命の弟で、父は大綜杵命、母は高屋阿波良姫であるとする。
開化天皇の時代に大臣になり、崇神天皇の時代、神物を班たしめ、天社・国社を定め、物部八十手の作った祭神の供物をもって、八十万の群神を祭った。そのとき布都大神を祀る社を石上邑に遷し、天璽瑞宝も合わせて祀って、この総称である「石上大神」を氏神としたという。
山代県主の祖長溝の娘・直木姫、荒姫、および玉手姫、また、倭志紀彦の娘・真鳥姫を娶って、合計七男を生んだとある。
天皇本紀にも、開化八年二月に大臣に任じられたことがみえる。
『録』では、巫部宿禰など、多くの物部氏族がその祖として伊香色雄の名前を挙げており、「物部八十氏」を結ぶ系譜上重要な人物。

なので元春日と呼ばれる「枚岡神社」が東大阪市の出雲井町に存在する理由は、すべての点と線を結べば繋がってくるのだと私は思う。
 
<今回ブログに引用した参考資料はコチラ>
それと話は変わって、御神木は立派なイチイの木と銀杏の木だった「イチイの木とは珍しい」と宮司にお話を聞くところ、なんと福岡では春日神社・現人神社・警固神社にもイチイの木があるというのだ。
 
これは驚き桃の木で実に素晴らしい!
 
神が降りるところに「イチイ」あり。
イチイは笏の材料にもなっています、古来物部の神事で使われていたのは銅剣の真っ直ぐな剣でした、この真っ直ぐな銅剣に神を降臨させたり、イチイの木から作った依り代に神を降ろしたりしました、これが笏となった訳です。
※後の時代の反りあがった大剣は大陸の騎馬民族の影響を受けたものだと思われます、日本は元々は真っ直ぐな剣です。
 
日本の歴史の答えはいつも沢山転がっている、どんなに歴史を改竄しても真実は一つ真実と向き合うことは大事だ。うさぎクッキー
 
 
↑昨日は大文字の「大」の所に雪が積もっていました雪だるま
 

山田の地に御笠あり

 
PS 沖縄から届いた美味しいソーキそば、あっという間に食べてしまいました。
 

 

いつも本当にありがとうございます<(_ _*)>

 

 
大国主(山幸彦)と高志沼河姫(豊玉)その子供が建御名方の神、そして建御名方は美穂須々美と結ばれる。
 
どれも正しいし、どんなに呼び方が沢山あっても物語は一つ。
 
ここが日本の醍醐味かも!
 
須々・すず 雛人形
 
そもそも論で言えば、持統天皇まで淡海三船天皇の名前を付けていたんだから、何を正しきとするかは大変困難である。