史実の謎
私は先代旧事本紀において現代語訳の書物は基本的に考慮しないようにしています、それは現代語訳版を否定している訳ではないし、分からない所は参考にさせてもらっています。
しかしどう考えても近代的な解釈の仕方、または翻訳の仕方が定められているのではないかと懐疑的です。
今日はその理由の一つ、私の場合懐疑的な個所は氷山の一角に過ぎませんが(笑)
ご紹介したいと思います。
<先ず信頼できる一般的な現代語訳>
あまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみことの孫の磐余彦尊が、日向から出発され倭国に向かわれて、東征されたとき、大倭国で漁夫を見つけられた。側近の人たちに尋ねて仰せになった。
「海のなかに浮かんでいる者は何者だろうか」
引用元はコチラです
どの現代語訳版もコチラと同じように「磐余彦尊(イワレヒコノミコト)」がとなっています!
しかし原文はどうでしょうか?
分かり易く青い枠で印ました!
アップにすると「磐余尊」と書いてありますね。
他の書物も見てゆきましょう!神道大系の原文はいかがでしょうか?
こちらもアップにしてみましょう♪
コチラも「磐余尊」でした、では更に国史大系も見てみましょう!
こちらも大きくしてみます
やはり「磐余尊」です、これはどう読むか?
大概の人はイワレヒコと呼ばず、普通にイワレノミコトと読むと思います。
ところが今、表に出回る一般認識は「磐余彦尊(イワレヒコノミコト)」と解釈されています。
なのに原文では「磐余尊」です。
次に衝撃的な証拠では!?
「イハレノミコト」とカナまで打ってあります。
「磐余尊」はイヨノミコトとも読めます、イヨも歴史的に重要な我々の卑弥呼の別称でもあります。
私はここで古代は女帝であっことを強調したいのではなく、今から160年以上前の王政復古を願う国学者たちが分散していた書物(言い伝え)を、一つの権威と一つの共通認識にまとめていたのではないか?と、そしてその影響が現代でも大きく作用しているのではないかと思うのであります。
それが後の明治維新にも大きく影響し、一神教政策や八紘一宇などのイデオロギーとして確立していったのではと考えるのです。
その証拠に、竹内文書や宮下文書ですら160年前に改ざんが入っています、そこで話はぶっ飛んでいても本質は崩れないように一つの権威と一つの共通認識は固く守られるような、そんな一面を感じざる得ないのです。
江戸初期から中期の、なんとなく夢に出てきた神ですら人々の生活に溶け込む自由な価値観が、明治を目前として権威主義に姿を変えるような不自然な認識に変化している。
そしてさらに江戸時代の国学士たちは近代の学者からも非常に持ち上げられているが、室町時代まで重要な三大国史とされていた先代旧事本紀を偽書扱いにしていた、それには知られたくない理由が存在すると見ています。
この江戸の御用学者そして水戸黄門で知られる水戸光圀公、さらに西園寺の門跡寺教育を受けた維新の立役者らは、皆先代旧事本紀は偽書として水戸光圀公に関しては「燃やしてしまえと」強行を図ろうとまでしました。
明治以降そして戦後に英雄のように称えられてきた偉人らは近年そのメッキが剝がれつつありますが、権威主義であるがための歴史においても、そろそろメッキを剝がしても良い時期なのではないかと思い記事にしています。
「彦」なんて何処にもついてないよね!
今日はここまで、では~♪