色男と同一神
イカガシキオとイカガシコメのことを、なんとわたくし以前はいかがわしい名前と申しておりました。
しかし今は反省しております、間違えておりました。
江戸時代の当て字ほどいい加減なものは無く、古文書や人々の苗字にしても当て字をそのまま使うケースが多く、やはり日本人は古代から漢字よりもカナの読みを大切にしていたのではないか?と推測しております。
そうは言っても漢字も意味あって用いられる場合もありますので、その意味合いや解釈の仕方は、その人その人の心根次第だということですが、やはり見落としてはいけません。
イカガシキオは漢字では伊香色男または伊香賀色雄と表記されている所が多ございます、イカガシコメに関しては伊香色女または伊香賀色謎となっている場合がございます。
さらに物部に詳しい人の話でも、この二人は兄妹説もあれば姉弟説もあり、夫婦説もあれば親子説もございます。
なので余計にいかがわしい…等と思ってしまいましたが!
色男や色女と付くほど魅力的な御方であったのだと、どれだけステキだったかを表していることに着目しなければなりません。
そしてさらに、垂仁天皇の皇子の五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)は石田君の始祖として祭られている神様ですが、イカガシキオとイカタラシヒコは同一という説がございます。
関西では色男という言葉はあまり使いません、逆に地元で愛される言葉は「あんた女ったらしやなぁ」とか「男ったらしやろ」などのように、人を誑し込むほどの色男(色女)を意味します。
なので物部の始祖として祭られているのはニギハヤヒまたはイカガシキオが多いことから、地域によっては当て字が進化したのでは?と言うような説もございます。
そうなると、開花天皇時と垂仁天皇とでは年代も違うし、親子姉弟の関係性もあるではないか!と歴史が詳しい人から反論されそうですが、当blogでは教科書より史実を探求しておりますので入り口は系図や信仰から調べていることをご理解いただきたいと思います。
そもそも歴史や年代と言っても、淡海三船(722―785)が漢風諡号を選定したことは歴史認識のある方ならご存知と思われますが、昔から神武天皇は「神武」と呼ばれていたのではなく淡海三船が神武天皇から光仁天皇までを後付けしたものです。
第73世武内宿禰こと竹内陸奏氏の話にも淡海三船のことはよく出て来ますが、49代目光仁天皇に関しては井上内親王と聖武天皇ファミリーのことをぼやかしています。
なぜ?ぼやかしているかと言いますと、ムッチャン先生の話だと光仁天皇は天皇になる器ではなかったと、平社員が天皇に大抜擢されたと、まるて見てきたかのように誇張され話をされますが、一番この代で触れられなければならないことが触れられていません。
先ずは聖武天皇の皇女である井上内親王のところに婿入りした形であること、天皇直系の井上内親王と11系も離れた存在が光仁天皇であること、そして伊勢の斎王を勤めていた井上内親王は謀反の疑いによって皇子と幽閉され殺害されたこと。
ムッチャン先生はこのことを省略して光仁天皇の後妻である百済から来た姫のこと、そして百済の姫との間に出来た皇子が桓武天皇であることをメインに解説されます。
ま、現天皇の北朝の血筋は桓武からですから、百済の姫のことを誇張されたいのだと思いますが、この説明でお分かりの通り南朝と言うのはこの聖武天皇ファミリーまでを差しています。
現実的にも都を京都に遷したのも桓武天皇ですからね!
北朝の文化と言うのはここからという訳です。
ちなみに光仁天皇の時代で近江三船が刑部大輔に出世し、桓武天皇の代で刑部卿にちょっとランクを落されていますが、ココから推測できるように政治的な意図が働いていたことには違いありません。
それが北朝の歴史です!
さて、話を戻して物部と言えば京都籠神社の海部宮司は、日本最古の天皇家より古い家系図のある家柄として有名ですが、飛鳥昭雄先生の話によると海部宮司は「40代天皇まで神と付く天皇皆同じ」と仰っていたというのであります。
神武も崇神・神功・応神は皆同じだと。
そして更に調べを進めると、天皇の背景にある姫君の不幸な死は、まるで繰り返すかのように推古天皇や井上内親王のような不幸な死に様が、埴安姫や黒姫などにも被ります。
個人的に勉強すればするほど、同じストーリーが繰り返されているようにも思います。
物部研究者の一人が仰っていたように「56代天皇まで語呂合わせ」という言葉がシックリくるのです。
では、ここから同一説を一挙公開しますが、あくまでも私個人の同一説ではなく、様々な人の同一説を複合してラインナップしてゆきます。
- 山幸彦と豊玉姫
- 八十事代主と櫛玉姫(阿波姫)
- 大国主と沼河姫 【国津神系の神名】
- 天児屋根と姫大神 【天津神系の神名】
- 開花天皇と伊香色女
- 伊香色男と玉手姫
- 椎根津彦と大気津姫
- 天手力男と豊秋津師姫(天津羽羽)
- 国摩大鹿島と新川姫 【大中臣系譜】
こうして見ると、そんなバナナと思うかもしれませんが(笑)
神話を除き実在に生きていた証拠の残る人物は伊香色男と伊香色女になります、ここで重要なのは伊香色謎と言われますように、このポジションの姫君が本当にぼかされているという事。
なんだかハッキリしないわけです、まるで天児屋根の姫大神のように!
では、ココから現実的な証拠の残る歴史として伊香色男の形跡から歴史を見てゆくことにしましょう!
伊香色男は神武天皇と同様の経路で奈良に入りました、伊香色男の場合は旅の滞在先で神事を行っていたため数々のお宮が存在しています、そのため何時の年代に何処で何をしたかが比較的多く実存しているのです。
さらに伊香色男は大物主(ニギハヤヒ)を祀る「神班物者」(かみのものあかつひと)として任じられたことでも有名です。
石上神宮は日本最古の神社の一つで、物部氏の総ご祖神を祀る原点がここから始まり、歴代天皇が欠かさず参られていた神社ですが、ココの祭祀を伊香色男の子供の十千根(=武諸隅)に任せたと言うことです。
『旧』天孫本紀は、伊香色謎命の弟で、父は大綜杵命、母は高屋阿波良姫であるとする。
開化天皇の時代に大臣になり、崇神天皇の時代、神物を班たしめ、天社・国社を定め、物部八十手の作った祭神の供物をもって、八十万の群神を祭った。そのとき布都大神を祀る社を石上邑に遷し、天璽瑞宝も合わせて祀って、この総称である「石上大神」を氏神としたという。
山代県主の祖長溝の娘・直木姫、荒姫、および玉手姫、また、倭志紀彦の娘・真鳥姫を娶って、合計七男を生んだとある。
天皇本紀にも、開化八年二月に大臣に任じられたことがみえる。
『録』では、巫部宿禰など、多くの物部氏族がその祖として伊香色雄の名前を挙げており、「物部八十氏」を結ぶ系譜上重要な人物。
↑コチラの旧事本記では伊香色謎命の弟とされていますね!しかし物部の系図では二人は夫婦であり子供が彦太忍信命(武内宿禰の祖父)であるという説があります。
国造本紀を見てゆきますと後者の彦太忍信命の父であったのが伊香色男であると分かります、コチラの方が後継者の歴史が残っておりますので信憑性があると思います。
国造本紀では伊香色男は大彦命と称され、大彦命の子が弟彦が岡山市の三野の国造りに任命され、最終的には軽島豊明朝の主帳県主「弟麻呂」となって戸籍が現存しています、軽島豊明朝とは奈良県の樫原神宮の近くの石川池付近の古代王朝です、南朝もコチラで吉野皇后の舞台でもあります。
八爪命は弟彦と同一、弟彦は三野国造りを賜ったことから三野氏を名乗る末裔が多いです。
『彦坐王=開花天皇=伊香色男』※古事記の記載と国造の記載は違います、当blogでは古事記と日本書紀の記述は参考にしておりません。
さらに孫が大兄彦(素都乃奈美留)が越の国造りを賜っています。
伊香色男の子である彦太忍信命は武渟川別(建沼河命)と同一であり、また一説ではタケミナカタと同一で諏訪で祭られているという話もありますが、それは本当だと思います。
その証拠にムッチャン先生も諏訪に武内宿禰が祭られていると仰っていましたが、あれは間違いではありません。
国造本紀では彦太忍信命(建沼河命)の孫である武内宿禰が諏訪の国造りを賜っているからです。
伊香色男より次世代と孫世代が中心に国造りをしてゆきます!
こうして国造から紐を解くと、人の動きと輪郭のある人々の歴史が甦ります。
ただ不思議なことに43代元明天皇から45代聖武天皇の時代に華々しく木造建築を手がけた棟梁一同は、兵庫から大和に向かい法隆寺、石山寺、興福寺、飛鳥寺を手掛けて現在の三重県に定住しますが!
こちらの棟梁の猪名部氏は祭神が伊香色男です!
ということは、彼らは物部です!
聖武天皇も福岡の四王寺山から奈良に移動しています、皇子は安積親王、あずみと書いているのに「あさか」親王と読む、海神族を匂わせていますね。
少なくとも聖武天皇と大工の棟梁一族は同じ時代に西から東に移動しています!
さらに聖武天皇の正倉院には、当時のモノか?または、それより前の時代の戸籍が現存していて、国造に記されているように人々と町がマッチングしています。
マッチングしている戸籍から考えられることは、10第崇神天皇前後と45代天皇前後が近いと言うことです。
何故か700年代に様々な形で証拠が残っているのです!
なのに現代人は証拠の残る時代を調べず、中国の歴史や、証拠も根拠もない神話ばかりを調べます。
そこから推測できることは、確実に1000年歴史を盛ったんじゃないかという事。
そこに行き着きます!
物部の歴史を調べると1000年のサバが浮き彫りになります、ですから先代旧事本記を偽書としているわけです。
さて、少し国津神と天津神を整理したいと思いますが、出雲系と天孫系は違うと、または対立し戦っていたと皆さん思われいますが、実は系図から見れば同じです!
→天香語山--穂屋姫
→天村雲と豊秋津姫
<一般的な物部の系図>
始祖天火明(=ニギハヤヒ)--天道日女
→天香具山(=高倉下)
始祖天日神※天日神の娘である高照光姫に天火明が婿入りする
天火明(=ニギハヤヒ)--高照光姫
→天香具山(=高倉下)
天児屋根(=櫛真知)--姫大神
→天押雲根(=天村雲)
これでお分かりの通り、一緒なのです!
出雲町に春日神社があることも理解できるのではないでしょうか。
ちなみに天村雲は剣で剣と言えば製鉄を意味しますが、鍛冶職人の家系には次のような系図があります。
<桑名家系図>
天津彦根(=天児屋根)→天久々斯比乃命
<製鉄・鍛冶の系図>
天津日子根(=天児屋根)--下照姫
→天目一箇神※製鉄と鍛冶の神(=天之麻比止都禰命・天戸間見命)--道主日女
→意富伊我都とアカル姫※このアカル姫と結婚したのが天之日矛と言って渡来人で火男(ひょっとこ)のモデル。
※ここから追記、伊香色男たちと共通する高皇産霊神の子孫として天日鷲神がいます、古代海神天族の共通する神は高皇産霊神となります。共同体として伊香色男神の穂積・忌部神・麻植神(おえのかみ)、同様の信仰は貴船神社や三島氏などでも同じ、すべての神社信仰の大半の系統の根に位置します。
<忌部系や八咫烏関連で見られる系譜>
天背男
→天日鷲神(少彦名)
→大麻比古
→天白羽鳥と天羽雷雄
天児屋根--姫大神
→天種子命
→国摩鹿島命--新川姫
→巨狭山命--弥麻志姫(忌部家)
→狭山彦と雷大臣
始祖を祭ることを始めた伊香色男が、最終地に至ったのは新潟の彌彦神社と言われています、日本人の国造の祖であり祭祀の祖と言ってもよい人物です。
我々の始祖が辿り着いたのは、豊かな田園風景が見渡せる地です。
北朝天皇らは京の都で権威を誇示しますが、物部の歴史はモノづくりの素晴らしさや豊かな農耕です。
私が言いたのは物部こそ我々日本人の在り方を示し、その生き方信仰や風習が根付いているのにも関わらず、今の日本人は舶来の文化や宗教に心奪われ、ルーツの在り方を認めようとしないことです。
浮き草は常に影響力に流され、人として、それがどれだけ不安定な事か理解できるはずです。
日本人は浮き草ではないのに、浮き草のように生きてしまっている!
日本の民が浮き草や根無し草と、そうならないように始祖が祖先崇拝という共同体の文化を遺し、少なくと2000年近くも継承してきたのにも関わらず、そこに誰も向き合わない。
ニセの歴史では人々は根付かない、これが答えです。
私は例え1500年の歴史でも構わない、しっかりとした歴史があるだけで祖先に感謝しています。
という訳で、この辺りでお開きにしますが。
調べながら書くと頭がこんがらがってしまいますね、読み返すのが嫌になります(笑)