アヤカシコネ
藤原家のために
私は崇敬神社が春日です、ご先祖も皆春日です、そして引っ越し先も春日に必ず縁のあるところです。
だから、藤原不比等。
中臣不比等とは縁が切れない、なので私が調べた範囲で情報を残しておくことにします。
4世紀に九州北西部に勢力を持っていたのが、天児屋根の子孫である国摩大鹿島命であった、略して鹿島一族と言わせて貰う。
そこに物部の祖である伊香色雄の娘の新川姫命が嫁いだ、国摩大鹿島と新川姫の間に生まれたのが巨狭山命(おおみさやまのみこと)じゃ。
そして巨狭山に忌部首の祖である玉櫛命の娘の弥麻志姫と結ばれ、雷大臣と狭山彦を生んだ。
この雷大臣の子孫が不比等たちである。
中臣一族と言うのは、神と人間の仲介をするような一族の名である。
だから、よく四大豪族の藤原を名乗れたことを羨ましく言う者がいるが、中臣を称することの方が神官家系にとっては重要なことで、中臣家にとっては屈辱的なことだったかも知れない。
とくに鎌足は藤原を命じられ、直ぐに亡くなっている。天智天皇との関わりを名誉で美化する解釈が一般的だが、天智天皇は自分が種付けした側室を鎌足の妻にするような説もある、だから鎌足の実子長男は不比等であったと言う話もあるくらいだ。
不比等は阿礼と共に、国仕掛けを起こした。
既に大陸騎馬民族系の権威者が天皇家を蝕んでいたからだ、どれだけ怨霊になった天皇が多いか見て分かるように、大陸系の騎馬民族は傍若無人に女性を娶る、それが例え息子の嫁であっても、家臣の女房にも、近親相姦も構わぬような者が権威であった。
だからこそ、大祓に天津罪と国津罪を法り別けた。
国津罪に己れの母と子を犯すな、己れの子と母を犯すな、母と子を犯すな、子と母を犯すな、獣犯せる罪、と何度も重ねられている。
※神社庁が発行する一般的な「大祓」には、この部分がカットされている。
話は戻します、後の時代に九州北西部に勢力を持っていた中臣の一行は鹿島や香取のある茨城に移った。
※正式に言えば茨城に勢力を移した鹿島一族と海神天族らが鹿島と香取を築いたのだ。
また中臣と藤原について、九州の阿蘇を中心に栄えた古代豪族の藤原家は、後の時代に後醍醐天皇の皇子と共に畿内に向かった、このままでは何れ滅ぼされる藤原姓と「火と水」原始信仰を忘れないために藤原姓を菊池に改名したと言う。
南部鉄器で有名な南部藩も、南方から移り住んだ菊池豪族一行が栄えたためである、九州は元々鉄が多く、熊本は特に古代から山鹿を中心に玉名などでタタラ製鉄が栄えていた。
このように製鉄を権力とする王族は「鹿」を称し鹿卜神事を行ってきたわけだ。
九州はまさに、製鉄の鹿島一族と安曇の海神天族の王朝であった。
原始信仰の「火と水」の神事については、菊池一族の中でも違いがある、火祭りを中心に行う一族と、水の神事を行う一族がある、日本海側に信仰の多い白山信仰に菊理姫と瀬織津姫と祭神が違うのは、祭事の違いである。
※国摩大鹿島(火)と新川姫(水)
また、現人神を降臨する祝一族も、雅楽を中心に行う一族もあり、軍団は其々を率いて地方に移動していたのだ。
ちょっと私の個人的な解釈で脱線すると、熊本の速瓶玉が九州を出て長野に行ったので出早雄になり、速いスピードで色んなところで統治していたので速玉男に愛着したのではないかと、ちなみに広島の安芸では飽速玉男である。
飽きやすい性格だった?笑
それとも空飛ぶ円盤を駆使していたかも?笑
なんちゃって
ここまでザックリなことしか語っていないが、言霊から見ると鹿島と物部と忌部の勢力は九州北西部で栄えていた頃、弥生語を使って倭人天族としての叡知を持っていた。
その大元となるのは弥生語であり、祝詞の主要語句に現れている。
それと同様に、五十音図を言霊の原点とするのも間違っている。
鏡臣が遺した言霊の氷山の一角を、大和言葉的解釈したものに過ぎない。
※鏡臣とは、始祖である天児屋根の妃の称号だ、御笠臣または鏡臣として皇后の役割を世襲する。
海外の旧約聖書によって頭でっかちにしても、自分の家系や自国の文化を知らない者は、的外れな解釈を引き起こす。
そして本当に大切なモノも、自らの手で失ってしまうことになる。
レビと言うなれば、大村寅之助がレビ族の人相の片鱗すらないことに疑問は持たないのであろうか?
古代ユダヤやスメルの末裔など古き伝承を持つ一族は、今世であってもレビ特有の共通した顔立ちをされている。
物部には物部の雰囲気がある。
自分のルーツ、国、我が遺伝子を愛でないと紐は解けない。
また明治は、貴重な歴史や神事の資料を多く英国に引き渡している。
五十音図は、変動の時代に沢山の宗教が立ち上がり、そんな中で漏れた言霊解釈の一つだ。
アヤカシコネは、弥生語ではアヤクチコネ『遺伝子のこと』と言う意味。