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マテリアリズム(materialism)とは唯物論のことであり、その本質は物質主義であったり実利主義を意味している。

 

マテリアリズムに汚染された世の中で人々は唯心論を見出すことができるのか?

 

さて、伊藤貫先生とジェイソン・モーガン先生のプレミアム動画が配信されました、休日にじっくり勉強できる内容でした。

 

今回も横文字が多かったので、さっそく調べて使っています(笑)

 

 

動画の内容から色々書いてゆきたいと思いますグッド!

 

<曖昧戦略>

台湾はアメリカが守るべきつもりがあるか?
アメリカは台湾を守るために中国と戦う意思があるように見せなければ、日本人が自主防衛のために核抑止力をもって独立国を目指そうとしてしまう。

 

だから本当はアメリカは中国と戦う気持ちがないけれど、戦う気があるように日本人に見せていると。

 

「stability ambiguity =  安定性のあいまいさ」←この言葉よく出てきました、勉強。

 

これは私の考えですが、アメリカは戦略的に台湾は親日国であることを日本人に意識をさせ、台湾に有事があった時に日本の自衛隊が台湾防衛に買って出るような洗脳がされているように思う。


特に日本の保守界隈にこのような洗脳が強く、それは台湾利権と背中合わせで根付いているように思う。

何故なら従軍慰安婦像について保守論者は韓国にヒステリーを起こすが、実際にこの慰安婦像を世界に働きかけて様々な国に設置させてきたのは台湾人である抗日連合という組織である。

 

実際に台湾に行った人たちの話でも、現地で親日だと実感した日本人は少ない。

 

親日だと感じられなくても、慰安婦像を世界各地に設置され罵られても、頑なに台湾は日本が好きだと信望する、これが今の日本人です。

 

占領下に日本人であった台湾人に対して、その孫世代の若者にしてみたら祖父母がどんなに日本が好きで誇りを持っていたとしても、孫世代の彼らは紛れもなく台湾に住む中国人で、中国人としての誇りは持ち様を失ってしまうのではないだろうか。

 

祖父母世代や親世代と相成れない世代ギャップを抱え、「かつて日本人であったこと」をいつまでも誇りに持たれる、これは親族関係に複雑な影を落としてしまう可能性がある、だからこそ強烈な抗日連合が存在することを我々日本人は自覚しないといけないと思う。

 

 

動画の後半30分くらいに特にイイ話をしていますが、「強い奴に媚びへつらう」フランスのヴィシー政権時の話を引き合いに出して、「ヴィシニスト」これは伊藤貫先生の造語だと思うのですが、ヴィシー政権の後のフランス人はドイツの時はドイツに服従し、ドイツが負けたらアメリカに服従する、そのような強い奴に媚びへつらうヴィシー主義者が日本会議の会長や日本の官僚や政治家に見受けられることをお話しされています。

 

モーガン先生は「日本に男の人はいないのか?」と伊藤貫先生は「日本の保守派は信じられないほど臆病」だと話されています。

 

要は直訳すると、とんでもないヘタレであるということです!爆  笑

 

その後に宗教と哲学の必要性を話されていました。

 

 

私から一言云わせて頂くと、日本の神道の本髄は形而上学的に語ることが出来ない不可思議さです、神道の欠点であるところは形而上学的に表すことが出来ないこと、良いところは計算式が無くても答えが「分かる」ことです。(式が無くても答えが出る)

 

きっと伊藤先生やモーガン先生のように形而上学を求めるのであれば日本の本質は掴みきれないと思うのです!

 

どんなに博識の高い学者であっても、今の時代の日本人の弱さは表面的な答えを求め過ぎること、内在する神を信じる強さは決して言葉に出来るものではありません。

 

江戸時代の祖先は哲学や形而上学を持って信念を得ていた訳でなく、祖先崇拝という日本の文化を通じて祖先から連綿に繋がる絆や「ナカイマ」と言う教えから諸外国にない精神文化を受け継いでいたことです。

 

ちなみに「ナカイマ」とは?漢字で書くと「中今」になります。

 

今を生きる我々は、遠い昔の祖先から遠い未来の子孫にまで、どんな生き方をしようと我々は「今を生きることを」許され愛でられながら生きているということです。

 

だからこそ誇りを失っちゃいけないし、未来への手綱を持つことの大切さを知ることができる!

 

「ナカイマに生きる」とは、そう言うことです。

 

ただ、これを受け継ぐことが一番難しいことでした、「これ」とは意志のことです。

 

日本の神道では「愛」を「神意」と書いていましたが、明治から失ったものは表面的なモノに囚われた日本人が「意思を継ぐこと」を失ってしまったのだと私は推測しています。

 

墓を守り、神棚を祀り祖先を崇敬する文化。

冥界では、連綿な連なった先祖たちは子孫を見守る御座におさまり我々を見守る神となる、その神の世界で祖先たちが嬉し愉しと暮らしてゆけるように我々は祖先の幸せを祈り、神となった祖先も我々を愛でて下さいますよう両想いの関係性を作る、これが日本の文化です。

どこから始まったかと言えば、古代天皇は皇霊祭を行うため「顕斎(うつしいわい)」という神事を行っていました、目に見えない存在を在るモノとする神事です。

 

神を顕在化させる神事です流れ星

これが各地の神社にも受け継がれ、新天地で子孫繁栄をし、安心して暮らしてゆくために神を降臨させお祭りしてきたのです。

この原点が、家庭用になったものが神棚や祖霊舎という訳です。

 

決してシンボル崇拝ではありません、其々のご祖神をお祀りし、それが後の産土の神となっていったのです。

 

どの学者も「なんのために」と言う原点追求をしないために由緒書きの神々に翻弄されていますが、神話の神々でもなく、とびきりの超越した存在でもなく、我々に身近に関連するものであったからこそ八百万の神とお宮が存在するのです。

古代から祖先をお祀りするという独特の土着文化です!

 

万葉集に日本に初めて訪れた中国の僧侶は「日本人は珍しいことに祖先をお祭りしている」と残しています。

 

今でこそ葬儀仏教となっていますが、本来は神道で行ってきたこと。

秋分の日と春分の日は秋季祖霊祭と春季祖霊祭、お盆には中元祭、さらに元旦祭といって我々日本人はお正月から神事を行います。

 

産土神から生まれ、亡くなればまた神の腹に還ると言う教えです。

 

だから日本の文化は継承しないと、その素晴らしさは分からない。

我流や新興宗教や他教にハマってしまっては日本の継承文化の醍醐味は語れません!

 

明治の祭神入れ替えによって土着の信仰は失われ、オリジナルであった祖先崇拝は江戸時代の檀家制度や明治時代の国家神道によって歪まされて来たのです。

日本人の力を取り戻したければ日本の文化を取り戻すしかありません!


 

僧侶に任せておいても先祖供養は出来ません、祖先崇拝は各々で行うことによって受け継がれてきたのです、天皇が行う「うつしいわい」と同じ神事を万人が継承してできた日本民族なのです。

 

恐れ多くて神を取り戻せないのでなくて、役割を失った自分たちの後ろめたさから神を取り戻せないのです。

 

八紘一宇のようになりたければ受け継がれた教えを共同体の文化とすることです、またそうして継承されてきたのが祖先崇拝です。

 

起点は物部の伊香色男が天神地祇の社を定めたことから始まります、だから石上神宮は歴代天皇が訪れた重要なお宮です、話すと無茶苦茶長くなるのでここでやめます。

 

ただ一つ覚えてほしいことは、神道は自然崇拝と祖先崇拝によって成り立っています。

 

そして我々は「ナカイマ」を生きていると言うことです 富士山

 

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